
長野県民であれば誰でも歌える県歌『信濃の国』。第2番のに出てくる歌詞
「流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川・・・」。この、長野県北部の犀川(さいがわ)と千曲川(ちくまがわ)に挟まれた肥沃な地「川中島」で、あの川中島の戦いが起きました。
戦国時代、甲斐の武田信玄が北信濃の攻略をしようとし、それを阻止しようとした越後の上杉謙信の戦いです。
川中島の戦いで最も大規模な戦いとなった八幡原(はちまんぱら)の戦いで、武田信玄が陣を構えた八幡社に行ってきましたので、ご案内させていただきます。

駐車場から八幡社(はちまんしゃ)へ
川中島古戦場史跡公園の無料駐車場を利用します。
・住所:長野市小島田町1384-1
・駐車台数:156台(普通車145台、大型車11台)
トイレもあり、広々とした駐車場です。




公園内を通って、八幡社へ向かいます。平日の朝9時ということもあり、まだ観光客はいません。


朝の開店準備中のお土産屋さんの前を通り過ぎ小さな橋を渡ります。

八幡社(はちまんしゃ)
正面に鳥居が見えてきます。

「武田・上杉両雄一騎打ちの地 八幡原」
川中島古戦場 八幡社
説明板より
この神社は八幡社といい、これより先は武田信玄が陣構え、御加護を仰いだ八幡大神を奉斎する神社の神域となり、正面手前が旧社殿(鞘堂)、奥が現在の神殿になります。
また昔よりこの辺一帯をこの神の御名に因んで八幡原(はちまんぱら)と称しています。

川中島大合戦図によると、
1561年9月10日 武田軍8千人対上杉軍1万3千人の戦いに、武田軍別働隊1万2千人が合流し大合戦となっています。


鳥居をくぐり八幡社境内へ。


旧社殿
旧社殿は、平泉の中尊寺金色堂と同じように鞘堂(さやどう)に覆われています。


神殿
神殿は、上田市の生島足島神社が改築されたときの旧社殿を譲り受け、1940年(昭和15年)に移築されたそうです。


信玄・謙信一騎討ちの像
川中島合戦のワンシーン、馬上から斬りつける白頭巾の上杉謙信と軍配団扇(ぐんばいうちわ)で受ける床几(しょうぎ)の武田信玄の銅像。
両雄の形相が迫力です。

三太刀七太刀之跡
武田信玄と上杉謙信の一騎打ちがなされた場所とされています。

信玄めがけて謙信は只一騎、隼の如く駆け寄りざま、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後にこの軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を世に三太刀七太刀の跡という。
説明版より
執念の岩
窮地に追い込まれた武田信玄のもとに助けに入った原大隅(はらおおすみ)が、上杉謙信を打ち損じた悔しさに、手に持った槍で、傍らにあった石を突き通したとされ、その石が「執念の石」と呼ばれています。

武田信玄めがけて切り込む上杉謙信の鋭い切っ先に、あわや信玄も八幡原の露と消えようとした間一髪、武田軍の中間頭原大隅が、傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を取って馬上の謙信をめがけて、ひと槍突きだした。苛立った槍は鎧の方の上にそれ、残念なりと返す槍で謙信の鎧の方を斜右上から力いっぱい打下したが、またも外れて馬の三頭をしたたか打ったので、馬は驚き跳ね上ってその場を狂奔し去ったため、信玄は危く虎口を免れることができた。
説明板より
一方謙信を取り逃がし、無念やるかたない原大隅は、傍らにあったこの石を槍で突き通したといわれる。
首塚(くびづか)
六千人以上の戦死者を出した戦い後、武田方が敵味方関係なしに戦死者を手厚く葬ったとされる塚のひとつ。


戦いの後、武田方の海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく集め、手厚く葬った塚の一つである。
これを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足に悩む武田氏に対し、「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と直ちに塩を送り、この恩に報いたといわれている。
説明版より
「敵に塩を送る」というのは諸説あり、今川・北条連合の塩止めに対して、庶民が苦しむような事をしたくなかった上杉謙信が塩止めに呼応しなかったため、越後経由でどんどん塩が入ってきたとことに因むとも聞いています。
川中島古戦場史跡公園
川中島古戦場跡に造られた芝生広場や小川のある広々とした公園です。

信濃国松代(まつしろ)藩士の佐久間象山(さくましょうざん)。幕末に多大なる影響を及ぼした佐久間象山の故郷、長野市松代町はここから約5キロの場所にあります。地元の誇りですね。

川中島古戦場では、戦国時代の一端に触れることができた一日でした。
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